ひとつの習慣とは、セルフ・コントロール(習慣の力)
オイラのブログで、執拗に繰り返される 習慣の力
これです。これです。
プロバンスの誘惑
プロバンスというのは南フランスのことなんだけど、オイラ憧れているんだよね。
ピーター・メイルの《南仏プロバンスの12か月》を読んでから、
「こりゃー、足踏みしている場合じゃあないぞー」って想いが強くなっていったんだ。
旧市街の散策がもたらす発見と小さな驚き、かつての貴族文化が今は食文化に花開いている。
ここには受け継いでいくことの大切さと変わらぬことの安心感があるんだ。
そして古代ローマ時代から続く、
入り組んだ路地が織りなす魅力があるんだよねー。
ここに、遠い昔のロマンと文化の香りがある。
木立に囲まれた庭園と館、取りの鳴き声で目覚める朝が
約束されているんだよね!
ういー!、ワクワクしちゃうんだよね。
太陽の下で寝っ転がりテーナー(^^)/
「寝っ転がりテーナー」なんて天を仰いでいるようではアキマヘン。アカンです。
オイラたちは、何をすべきかを既に知っている。
問題はそれを行動に移さないことだから。
「ビジョンを実現するスキルがないこと」より、
「実現する意志がないこと」が問題なんだよね。
作家のアルバート・グレイが、
1940年にこう書いているんだ。
「今日立てた誓いは、翌日に再び立てなければならない」・・・と。
そう、「誓い」は毎日立てなくてはならないんだ。
行動は、戦略であり習慣だ。
同時に行動は「考え方」だよね。
適切なマインドセットを
持てば自ずと行動は伴う。
以前ね、ビル火災で高層階に閉じ込められた女性の話を聞いたことがあるよ。
彼女は高所恐怖症であり、閉所恐怖症だった。
火災報知器が鳴ったとき同僚から吹き抜けの階段を使って
避難するよう促された。
でも、彼女は足がすくんで動けなかった。
彼女は「動くくらいなら、死んだ方がマシ」と思ったそうだ。
ついに、消防士が彼女を見つけて、「こっちにきなさい」って手をさしのべたんだ。
でも彼女は 「怖い怖いから、階段を降りれない、もうどうでもいい」と抵抗した。
いくら引っ張っても動こうとしない女性の目を見ながら、消防士は叫んだ。
「怖くてもいいじゃないか、怖がりながら降りればいい」
その言葉に、彼女は反応した。 震えながらも動きだした。
「怖くてもいい」という消防士のフレーズは、女性の命を救っただけでなく、彼女の人生をも変えてしまった。
それは彼女が日々の生活の中で大小さまざまな恐怖を感じた時に唱える「おまじない」になったんだね。
「怖くてもいい。怖がりながら行動すればいい」
オイラたちに何かを与えてくれるのは、「行動だけ」だ。
多くの人が、人生の大切な目標を望み通りに
実現出来ない。
なぜか??
この問題の根底にあるのは、
現代社会の消えつつある「ひとつの習慣」・・・・
ひとつの習慣とは、セルフ・コントロール(習慣の力)
※セルフ・コントロール(習慣の力)
=目標を達成するために面倒くさいことや気が進まないことでも、時を選ばず淡々と実行する力
「プロバンスの誘惑」へのコメント
SY牧場のゆーこです。プロバンス地方、とイタリアのシチリア島は、わたしの長年の夢の場所です。
「怖くてもいい」 わたしもがんばろう。
面倒くさいことや気が進まないことでも、時を選ばず淡々と実行するって、わかっているんですけれど、なかなかその時の「気分」に逆らえない。 だから、ぼくは こんななんでしょうけれど。
反省してます。前にいかなくては。
おやすみなさい
オイラはフランスに行っちゃうんですか?フランス語もかなり真剣にやっているし、 なんだか心配になります。
僕はニューヨークに住みたいと思っています。 そういう気持ちって大切だと思っています。
寒くて眠れません。 セルフコントロールできていたいからでしょうか。なかなかウマクいかなくて、人生悩み多しです。
セルフコントロール
なんでも、セルフでやるということ。 それは、 よくオイラの言う、個の力ともリンクしてくる。
おはようございます。「怖くてもいい。怖がりながら行動すればいい」 とにかく、理由はどうあれ、「動くか動かないか」これで物事は決まる。 楽しもうが、恐がろうが、行動できれば、結果オーライ。
「今日立てた誓いは、翌日に再び立てなければならない」・・・というところが、まさに目からウロコでした。 自分はこれを、していないから、意志、意識が経年劣化してしまうのだ気づきました。
今、気づけて良かったです。
大学の卒業旅行の目標地が決まりました。絶対にプロバンスにします。 この雰囲気大好きです。
M学院大学文学部3年 ほたる
師匠の夢は OK牧場での話のネタにもなっていたし その夢が
継続していることに そして『実現』のために 全てのベクトルが
そちらへ 向いていることには 敬服
オイラの 考えは 少し違う
海外へ出掛けて 何処に住もうが 我々は そこに行けば『外国人』でしかない その国が始まって以来代々そこに暮らす人と同化することはできません
やはり自分は 日本人として先祖代々引き継いできた歴史をもっと深く理解し 今の生き方を日々吟味し 先祖が築き上げた文化を更に理解したいとおもっている
先の戦争後 我々は余りにも 自己の立ち位置を 再吟味することを忘れているのではないだろうか?
オイラは 自国以外の文化を根幹から理解出来るとは 考えられないと思っている 出発点の違いからあまりにも時がたち 世界で起こる事件 事象を理解することは かなり難しく 困難なことだと思う
だからといって 他国を蔑ろにする事が 正解とはかんがえていない
観光客程厄介な人種は いないのではないかと思う
金の虜になり少しのお金が手元にできたら 行先の文化を学びもしないで 割り込んでくるのに 腹が立つ
自国の礼儀作法が 他国でも通じると思う 思い上がりの心を乗り越えてから 来てほしい
誤解しか心に残らない 訪問は やめた方がよいのではないだろうか これは オイラの 考え方 反対も賛成もあるだろうことを
覚悟して 師匠のブログを借りて述べさせてもらている
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カテゴリー:院長ブログ 投稿日:2016年1月7日
南フランス、すごーく行きたいです。 写真だけでも心が浄化されました。