天才と、レタスヘアー

天才と、レタスヘアー

1242266059_photo.jpg「世間では『秀才は努力の人で、天才は努力しなくてもできる人』とみられがちですが、僕は違うと思う。
『秀才は中途半端な努力しかしない人で、天才は超人的な努力をして、しかもそれを努力と思わない人』だと思います」 と言っているのは脳科学者の茂木健一郎さんね!
 脳科学の立場からだとそういうことらしい。
そしてこう続けて居る。 
「 思うに、天才の脳はリミッターが外れているんですよ。ほとんどの人は、脳機能を100%発揮しないで、70~80%しか出せない。ところが天才と呼ばれる人たちは、リミッターが外れていて脳回路が暴走してしまう。だから、天才にとって努力は苦にならないんです」 
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うーーん、どうも天才に「努力」という泥臭い言葉は合わない気がするんだけどな。
 アインシュタインもニュートンからも「努力」という言葉から来る一種の悲愴感みたいなものは全く汲み取れないしさ・・。 
まあ、本人が努力だと思っていないって言うのは、そうだと思うけど、周りから見ても、三度の飯より物理が好きだみたいな姿を見ても、「努力家だなー」なんて思わないよ。
「さすがは天才、こりゃー別の生命体だ・・」って 自分と同じ次元で考えるなんてできないもん。 

本人も、周囲も「努力」でないと思っているなら、努力家だなんて言うのは無意味だ。 
そもそも生きている軌道が全く違う。 競えるランクじゃあないよね。 
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先日、所さんの番組で、「河東(かわひがし)先生が出ていて、嬉しくなっちゃたよ」  天才って話題になると必ず名前がでる、
現・東大大学院数学科の教授だ。51才だったかな。  
オイラは河東先生の髪型があまりにもアインシュタインなので、密かに尊敬申し上げていたんだ。  
 オイラも、「一瞬この髪型に、って」思ったものの、これは天才しか似合わないと、直ぐに気づいて却下さ。だってレタスだぜこりゃ・・ 
  
河東先生は麻布中学3年の時に、高3生と一緒に受けた模試で校内トップで、教員yjimage-4.jpegの度肝を抜いた。 麻布中でトップなら、まあ受験界では全国ベストテンみたいなもんだ。しかも、当時中3、ハーーー。
  
無論、河東先生にとっては受験なんてチャンチャラおかしくて相手にしていない。 小学校の頃には微積も完璧に理解していて、中学では「超積と超準解析」「位相と関数解析」といった、大学院レヴェルの本を読んでいた。 それもすべて英書で読んでいた。

ので、中一の頃には東大の入試問題なんて、さらさらだったという。麻布中の数学の先生より出来ちゃったので、中学の時に、その先生の紹介で東大の数学サークルyasu2010.jpgにいれてもらうも、ここでも東大生に教える側になってしまった。
高3になって 河東先生の麻布の同級生もみな東大に進んだ。しかし、みな文系に進路を決めた。
 河東先生を間近で見ていて、「あんな天才と一緒に理系で勝負なんて、とんでもない」・・・ってさ。  

 所さんの番組でも、各界の天才に「あなたが思う天才とは誰?」みたいな企画でわらしべ長者みたいな探し方するんだね。 そのラストが河東先生だった。
みな、口を揃えて
 「あんなトビヌケタ天才みたことがない、自分がいかにに無能か、思い知らされる」・・・・と。
 
オイラだって
「あれーかわひがしせんせいだー!!」って万歳しちゃったモンな!  
確か2才上の奥さんと学生結婚しているんRIMG0745.jpgだよね。東大理1の同級生で奥さんが、「東大の先生よりできる鮮やかな天才ぶりにすっかり参っちゃったらしい(^^;)」
 
でも私生活では、電球ひとつ変えられないんだってさ。 奥さんが、電球の玉のチェンジを頼んだら、固まっちゃったらしい。 なんかアインシュタインを彷彿させるでしょう(^o^) 
 
奥さんも質素な感じで、「生まれ変わっても、この人と一緒になりたい、愛してます」なんて淡々と言うんだよ。とても素敵な女性だったな。 
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夫妻の生活は月5万円もかからないんじゃあないかって思うような印象で、まったく経済的な欲がなく、心があらわれるよ。  

 政治家の「方便」や、マスコミの「人の上げ下げ・祭り落とし」 こんなのに
image-3.jpeg毒されていては腐爛する。
ワイドショーは人間を劣化する毒ガスだ。抹消していい。

河東先生のような 理系の天才の四万十川の透明感を感知するんだ。あーー、空気がうまい! 
オイラは天才とは無縁だけれど、 天才のバイブレーションぐらいは、是非是非は感じて前に行きたい。  

「天才と、レタスヘアー」へのコメント

自分の中に持っている才能を自分で見つけ それを磨きさらに一歩でも昔の人より前進する事が出来れば。
凡人は 非凡人に劣るわけではない 凡人は凡人として精一杯の努力と楽しみを享受しながら 自分の一生を終えれば良い。
 
オイラの考えは『凡人と非凡人の違いは、第三者が観たとき 唯一比較され結果 何かが違うと非凡人、天才というのではないか?』
人生をかけて 決めた目標に一途に 突き進む事が 出来ることは 正に凄い事ではあると思う。
皆がそのような事をしなくても 出来なくても 恥じる事 卑怯になる必要のない そのように考える。
人生最後の瞬間に 生かされてきた事に感謝できるように 過ごせたら それでよしと考えている。
 その時 自分の周りでささえてくれた人々に 感謝できる自分でありたいと
 日々修練しているが 年齢を重ねても 人間が所謂丸くはならないし 人の欠点が目に付く状況。 
まだまだ この調子だと 宇宙に旅立つ日は来ないのか?
このような状況を、喜ぶべきか 悲しむべきかは
 秀才か 天才かよりも オイラには 眼前の難問。

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カテゴリー:院長ブログ  投稿日:2014年3月19日

         

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