ねえ、なんで 生まれてきたの?
「人間は自由の刑に処せられている」
「実在は本質に先行する」
なんて ちっともわからないけど、格好いいことを言ったは、サルトルだ。
ここにペーパーナイフがあるとするよ。 このペーパーナイフは『紙を切るため』に作られている。
そう、目的があって作られているんだよね。 では、動物はどうだろう。 彼らは、種の保存、子孫の繁栄のために、生まれてきている。
じゃあ、じゃあ、 人間の生まれてくる目的は・・・・?
「俺はプロ野球選手になるために生まれてきた」「私は、女優になるために生まれてきた」「自分こそが、世界を救う為に使命を授けられた」・・・ エトセトラ
なーんて、勝手に言ってろや!
この世界に、オイラなんか生まれてこなくても、何の不自由も無いのに、
なぜまた、オイラが生まれたんだ?
オイラが生まれてきた、意味というか目的はなんだ?
誰もが思春期以降に、よぎる問いだよね・・・。
「ああ神様・・ なぜ私を・・・」みたいな映画みたいなシーンだ。
そこでサルトルは言う。
『そんなもの、初めからアリはしないんだ』・・と。
人間には生まれてくる目的なんかない。
自由なんだ・・・・・・と。
しかし、このことは、
「常に、個々の責任に於いて選択を迫られている」とも言えるんだ。
はじめから、目的があれば、むしろ楽に思える。
だって、淡々と、それに向かって行けばいいのだもの、悩むことなんか無い。 だから、サルトルは、自由の刑という、「刑」という文字を文学的に入れたんだと思うョ。
なんせ サルトルはノーベル文学賞を辞退するくらいの文豪だからさ。
さーてと、 存在に目的のあるものは、その目的を執行することで、価値が生まれる。 ペーパーナイフなら、紙を切る事で、そうなるようなもんだよ。
でも、人間に目的が無いと言う事は、
何をすれば価値や性質を持つのかわからないッテ事だよ。
でもこのままでは 悲しすぎる。
サルトルは神様は居ないという、立場の哲学者だから、論理的に考えたんだ。
人間には 価値や性質があるはずだ、 それはどこからくるのか、
その結論が、冒頭の 有名な二文なんだ。
かーんたんにいうとね、
「もともと本質・価値があるんじゃあなくて、何かをするから、本質・価値があらわれるんじゃん」ってことだよ。
世間の倫理や道徳なんて意味がない。それよりも、今ある、自分の方が、よっぽど大切。そんな考えが、サルトルの言う、実存主義ってやつね。
そもそも「人間はこうあるべきだ」なんて 本当のところ、だれにもわからないわけじゃない。 何が、幸いかなんて、誰にも、答えはだせないんだ。だって、答えはもともとないのだから。
だったら あれこれ悩まず、自分の声に従えって・・。これが、「実存は本質に先立つ」っていうところね!
人間は最初から何かを成すために生まれて来たのではなく、生まれた後で、その人自身で選び取っていくもの。つまりは、自分で判断して、行動する。その積み重ねが、「人間の本質」と言えるわけだと・・・。
自分で選んだ行為は、自分で選んだと言うだけでもう、十分に価値がある。
なぜだろうか、 ソりゃーそうだよ。
それこそが、その人にとっての 「人間の本質」の答えなのだから・・。
逆は、自分以外が選んだ行為なら、犯罪的無価値ということ。 キツィね:
人間は、本質的には自由でありその行動には制約はない。
でもサルトルは、「行動は自由だが、そこには全人類への責任が伴う」と言っている。
全人類?? ここがミソだね・・ 大げさではないんだ。
あなたが、信念をもって、述べた言葉に、他の人が影響を受けるかも、知れない。
だから自由の刑なんだ。
その覚悟で選択した道には、優劣はなく、どれもが 素晴らしい道なんだ。
自分で選んだ行為は、自分で選んだと言うだけでもう、十分に価値がある。
親の敷いた道を仕方なく・・・ 学校の先生の偏差値による指導の末の道をなんとなく、・・・・・・・
ジャン・ポール・サルトルに言わせれば、
これは、人間としては 価値・本質に背くということになる。 不自然的反逆行為!!!!!
ホへーーっす
久しぶりに哲学してみた・・。
たまにはカターく(^_^;)ね:::
週末に、「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」という 映画を見た余韻なんだ。
フランス映画だ。
自分で選んだ行為は、自分で選んだと言うだけでもう、十分に価値がある。
久々に 出演者と同じ空気を吸うことができた血になる映画だった。
メルシー(^^)/!
「ねえ、なんで 生まれてきたの?」へのコメント
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カテゴリー:院長ブログ 投稿日:2013年2月27日
久し振りのブログ。二回続けて『哲学』の話。解かりやすいように解説されているが 誰かを意識しているように感じるのは オイラの独りよがりかも。
長年科学系の思考で過ごした オイラには 人間の頭で考えて組み立てた理論、思考は いつか 別人により覆される運命にあると思っている それが進歩であり 発展する世界の掟だろうから。
サルトルもハイデッカーも普遍の思想であるのだろうか? サルトルの思想が60年も熱狂的に国民に支持された国は日本だけなんていう解説もある。己が生きている、存在している事実に意味づける事は永遠の課題で 本人が決める最大の最高の難関項目であろう 責任は(他人に与える影響も含め)全て本人にあるから。 生きていることを支える中心が見えない今の時代こそ大変な時代かも知れない。自己を鍛える『道』がかすみ自己鍛錬をサポートするエセが多すぎる。
『守破離』と言う言葉がある
それすら忘れられている 型は普遍ではない。誰にも真似できない、その時代に合った型を見つける。これこそ、人間と言う集合体の中で新しいものを見つけていく基本ルールのような気がする。
オイラ 自分をもっと自然界を含む全てのものに『敬虔な心』をもつように鍛錬していきたい。単なる反論は 何も生み出さないから。