その古本、どこかで見たと思ったら家にあった。父の書棚にあった。
父は小学校の教師だった。とても懐かしい
わたしも小学校の教師になったけれど、今日のブログの登場人物との接点はゼロで、勉強不足を痛感した。そもそも、自分がどう生きるかも追求しないで、生徒を導けるわけもない。父を見直しました。
気づかせてくれてありがとうございました。
京都学派
ひとり空しくビスケットのしけっている日々を経て やっと見つけ出した。 それがこの本。できれば初版本、それがだめでも、せめて大正時代に出されたやつが欲しかったんだ。
むろん現代版は、3回くらいは読み込んだんだけれども、どうも本からくる臨場感がないんだよな。
それで探していたんだ。 1800円(税込み)やったね(^o^)
どうやら本来は壱円八十銭だったらしい。
ビンビンくるよー 西田哲学の光芒が・・・・
オイラの中では学問の中の最高位が哲学なんだ。
「人はどう生きるべきか? 自分はなんなのか」
これが学問の頂点であることは古代ギリシャのソクラテス・プラトーンの流れから言っても間違いないと。
その哲学で日本最高峰が西田幾多郎博士だというのがオイラの中のヒエラルキーなんだ。
日本文学全集なんかを読んでいると、かなりの数の本に無作為に、京都大学教授の西田先生の名前が出て来るよ。
東大でなくあえて京大を選んだ優秀な学生達のお目当てが「西田幾多郎先生だった」という記述が本当に多くみられる。
京都大学の教授として多くの哲学者を育成した西田幾多郎は、
京都学派と呼ばれる学派を形成し、日本における哲学の理論形成に影響を与えたんだ。
京都学派の思想については、今なお世界各国で研究が続いているほど世界的に飛び出しているんだよ。
西田哲学のキーワードは「純粋経験」
例えばピアノやバイオリンなどの楽器に熟達した音楽家が演奏するき「次は何の音だったかな?」などと考えないでしょう。なにも考えずただ音楽と一体となっている。
命がけで絶壁をよじ登る人も、なにも考えずに無我夢中で手足を動かす。このように夢中になって何かに没入している状態が純粋経験なんだ。
簡単すぎる説明だけれど、オイラに西田哲学を一節で説明できるわけないじゃん(^^) 許せ許せ・・・
2年前にハイデガー講座で東大の先生に哲学を教えて貰ったときに私の講義に出るなら最低限
「善の研究」だけでも暗記するくらい読み込め・・と言われたんだ。
そこで見捨てられないように読んだら 自分で言うのも何だけれど、
「視界が魚学レンズ並に広がって自分自身驚愕したんだ」
加速的にいろいろなことができるようになったし、孤独を力に変えることができるようになった。それ以来オイラも 自称ー京都学派(^^)/
今でも 西田先生を私淑している。
西田先生は銀閣寺から若王子へ抜ける流水べりのいわゆる「哲学の道」をよく散歩した。この姿はさながら「思索に憑かれた人」のようだったと言われている。
オイラも境川沿いとかの散歩じゃあイヤだヨー インスピレーションに結びつかないヨー・・・・なんて!
あー京都は閃きの街だ・・長後じゃあ閃かないよー(いいわけかー)
本の表題に「文学博士」ってあるでしょう。 これ、オイラ的には面白いんだ。
文学の博士号(はくしごう)は滅多に出ないんだよ。
理系の場合大学院さえでれば70%以上は博士になれる。
でも文学博士はまず取れない。
因みに医学博士もまず大学院さえ出れば95%は取れるらしい。
歯学部なんて100%だよ。 だからオイラの歯科大の同級生は今でも、博士号はプラス4年大学院にいけば どの学部でも100%もらえると信じているもの。
理系の場合、博士号がないと海外で研究生活がデキナイから、その突破口みたいな意味合いなんだ。 ここからがスタートってこと。
文学の場合は研究自体に独創性を持たせるのがかなり困難なのと、一生かけてやっと博士になれるというニュアンス。
しかも東大と京大の2校以外の博士号は学者間では無意味というから、それは厳しいよね。
ちなみに西田幾多郎が京大の文学博士をとったのが43才の時、同じ京都学派の和辻哲郎が京大のを43才で取得している。
国語辞典で有名な金田一京助が53才 金田一春彦が49才で 東大から文学博士を取得している。
この人達がこれだもの、 学生が大学院出たくらいで取れるわけがないよ・・!
ね! こういう世界なんだよ!
だから 「文学博士」って本の表題に書いてあるのを見て何となく可笑しくなっちゃたんだ。 水戸黄門の印籠だ(*^_^*)
おっと話しが横道にそれすぎたー
眠くなってきたから 寝マース GOOD NIGHT
「京都学派」へのコメント
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カテゴリー:院長ブログ 投稿日:2014年5月29日
学問の最初は 哲学で ソクラテスやプラトーン から始まった。
医学や 建築学は 『匠』の世界が原点。
オイラも 入学早々に習った哲学は 師匠のいわれる 『京都学派』の流れを汲む先生から薫陶を受けた
正直真意はさっぱりわからなかった というところだが
古代ギリシャで 青空のもと 日がな一日 議論を交わしている
イメージは十分脳裏に焼きついている。
人間の『生』について 追求する学問で 理科系 文科系の原点で岐路と思う。
和辻先生の本は 少しかじったが 西田哲学は 『哲学の道』を先生が定時に散歩されていたというイメージしかない。(シャーロックホームズが 定時に散歩する姿と重なっているが)
兎に角 難解な 解のあるようで 無いようで 時には 詭弁のように 思えた。
学生時代は 授業が終わると 何人かが集まり はがきに 理解できなかったことを書いて 自宅のポストに直接投函(少し違う意味もあった お嬢さんが同級で 美人 その顔を見たくて…
) 必ず次回の講義で はがきの質問から 始まったのを覚えている 余り哲学では 優秀な学生ではなかった 単位は 優? 理由がわからなかったが。
「人はどう生きるべきか? 自分はなんなのか」
未だに 繰り返す 文節